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千葉地方裁判所佐倉支部 昭和55年(ワ)57号 判決 1985年4月10日

原告 吉岡典昭

<ほか一名>

右両名訴訟代理人弁護士 大塚喜一

同 渡辺眞次

同 山下洋一郎

被告 矢作勝漠

<ほか一名>

右両名訴訟代理人弁護士 早川俊幸

主文

1  被告らは各自原告吉岡典昭に対し、金一九五万〇九三九円及びこれに対する昭和五四年一月一六日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告らは各自原告吉岡千代子に対し、金九〇万〇五六三円及びこれに対する昭和五四年一月一六日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

3  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

4  訴訟費用は、これを一〇分し、その九を原告らの負担とし、その余を被告らの負担とする。

5  この判決は、右主文1、2項にかぎり仮に執行することができる。

6  被告らは各自、原告吉岡典昭については金八〇万円の担保を供して、原告吉岡千代子については金四〇万円の担保を供して、各々前項の仮執行を免れることができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは各自、

(一) 原告吉岡典昭(以下「原告典昭」という)に対し、金三〇〇〇万円及びこれに対する昭和五四年一月一六日から完済まで年五分の割合による金員を、

(二) 原告吉岡千代子(以下「原告千代子」という)に対し、金二〇〇〇万円及び右同日から完済まで右同割合による金員を、

各々支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  右に対する答弁(被告ら共通。以下同じ)

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

3  予備的に、原告ら勝訴の場合、担保を条件とする仮執行免脱宣言

第二当事者の主張

一  請求原因

1  交通事故の発生

(一) 昭和五四年一月一六日午後七時二〇分ころ、東京都江戸川区篠崎七丁目三番地先路上において、被告矢作武典(以下「被告武典」という)運転の普通乗用自動車(足立五六つ四八二、以下「被告車」という)が、原告典昭が運転しその妻の原告千代子が同乗していた普通貨物自動車(千葉四四り四五二〇、以下「原告車」という)に追突した。この時原告車は信号待ちのため停車していたものである。(以下この事故を「本件事故」という)

(二) 被告武典は被告車を運転して原告車に接近したが、前方注視を怠ったため、右追突に至ったものである。

2  責任原因

(一) 本件事故は、右の如く被告武典の過失により生じたものであるから、同被告は民法七〇九条により本件事故による原告らの損害を賠償すべき義務を負う。

(二) 被告矢作勝漠(以下「被告勝漠」という)は、本件事故時被告車の保有者であったから、自動車損害賠償保障法(以下「自賠法」という)により同法第三条本文所定の損害賠償責任を負う。

3  傷害と治療経過

別紙請求原因目録3項記載のとおり

4  損害

右同目録4項記載のとおり

5  まとめ

以上により、右損害の内金として、原告典昭は金三〇〇〇万円、原告千代子は金二〇〇〇万円の支払いと、右各金員について不法行為の日である昭和五四年一月一六日から完済まで年五分の割合による民法所定の遅延損害金の支払いとを求める。

6  被告らの反駁に対して

被告らは本件事故の追突程度が軽微であると主張する。しかし、事故により被告車は中破し、被告らはこれを修理せずに廃車したほどであるから、決して軽微な事故ではない。原告車両の破損がさほど大きくなかったのは、被告車が原告車の荷台下にもぐり込むという追突態様であって、原告車後部のナンバープレートの下にスペアタイヤがあったからである。即ち、追突の衝撃自体は激しく、原告千代子は一瞬気を失ったほどである。

二  請求原因に対する認否及び反駁

1  請求原因1項の(一)は認め、(二)は争う。被告車は原告車の後で一旦停止し、その後発進して原告車に衝突したものであり、その衝撃は軽微であった。

2  同2項は認める。

3  同3項は不知。

4  同4項については次のとおりである。

(一) (一)(二)の各(9)、(三)の(2)中伝票等の記載をしていなかったこと、(四)の(4)中原告典昭が自賠責保険で等級表第一二級第一二号に該当すると認定されたこと、(五)の(1)中原告千代子の右同認定が第一四級第一〇号であったこと、以上は認める。

(二) (一)の(1)(2)、(二)の(1)、(三)の(2)の(イ)(ロ)、(三)の(3)中本文の寄与率、(五)の(1)中の傷害内容、以上は知らない。

(三) その余は全部否認し、争う。

5  被告らは次のとおり反駁する。

(一) 本件追突の衝撃は小さく、原告車の破損も軽微であった。したがって、原告らが主張するような症状及び損害の発生は通常考えられず、右は本件事故と因果関係がないというべきである。

(二) 仮に右因果関係があったとしても、原告典昭の全症状は遅くとも昭和五四年九月三〇日までに固定したとみるべきである。そして、後遺症が仮にあったとしても、自賠責保険料率算定会の認定のとおり、全症状を含めて一二級一二号(局部に頑固な神経症状を残す)の程度にとどまる。原告典昭の右腕の障害が仮に一部本件事故と関係があったとしても、青果小売の営業上の現実の支障は殆んどないので、これによる逸失利益は算定不能である。

(三) 原告千代子の頸椎捻挫等についても原告典昭の場合とほぼ同様であって、因果関係がない。特に原告千代子の視力低下は、先天性の既往症である網膜色素変性症に随伴するものであって、本件事故と因果関係がない。同原告の心因反応、耳鳴等についても、真実これがあるとすれば、右変性症に随伴するものと疑われる。かくして、原告千代子の全症状も遅くとも昭和五四年九月三〇日までに固定しているとみるべきである。本件事故による同原告の後遺症が認定されとしても、最大限一四級一〇号(局部に神経症状を残すもの)と認定しうるにとどまる。

(四) 原告らは、事故前の所得を算定すべき適正な資料を全く提出しない。よって、昭和五三年の年収として、原告典昭は金二〇四万四〇〇〇円、原告千代子は金二〇〇万円とみるのが相当である。

(五) 原告ら主張の損害は全部認め難いが、前記(二)(三)のとおり最大限に譲歩してその一部を認め、各総損害額を試算すると、原告典昭は金五八一万八九三〇円、原告千代子は四一〇万四八三七円となる。これから従前の填補額(後記のとおり、金四七七万一三〇〇円と金三三一万八三〇〇円)を控除した残額は、原告典昭が金一〇四万七六三〇円、原告千代子が金七八万六五三七円と計算される。

(六) 以上の次第であって、原告らの主張及び請求は著しく過大であり、到底認められない。

三  抗弁(損害の填補)

本件事故による原告らの損害に関して、原告典昭については合計金四七七万一三〇〇円の、原告千代子については合計金三三一万八三〇〇円の各填補が既になされている。

四  抗弁に対する認否

抗弁事実は認める。しかし、原告らの総損害から右填補額を控除しても、残損害額は原告らの本訴請求額を上廻り、原告らは右残損害額の内金を求めているものであるから、有効な抗弁となり得ない。

第三証拠《省略》

理由

一  交通事故の発生

請求原因1項(一)の事実(本件事故の発生)については、当事者間に争いがない。

二  責任原因

請求原因2項の責任原因については当事者間に争いがない。よって、被告らは各自原告らに対して後記未填補損害金を賠償すべき義務がある。

三  事故の態様

原告らの受けた損害の内容程度を検討する前に、まず本件事故の態様について検討するに、右争いのない事実、《証拠省略》を総合すると、本件事故の態様は以下のとおりと認定判断でき(る。)《証拠判断省略》

1  本件事故時、原告両名は、東京都内で後記のとおりの青果類小売りの仕事を終え、千葉方面に帰る途中であって、事故現場の京葉道路下りの片側三車線のうち中央車線で、信号待ちのため前から四、五台の位置で停止していたものである。

2  本件事故時、被告武典は、大学生であって、友人を乗せて知人の家を訪ねる途中、信号待ちのため停止している原告車の直後約三メートルの位置に一旦被告車を停止させたが、その付近の知人の家を探していたため、前方を注視せず、右側の車線に停止していた第三者の車が動き出したのを見て、前方の信号が青に変って原告車も発進したものと思い込み、アクセルを強く踏み込んで発進し、被告車を一〇ないし一五キロメートル毎時の速度まで加速して、依然停止していた原告車の後部に被告車前部を衝突させたものである。

3  右衝突により、原告車(いすずエルフ二トントラック)は約一メートル前方に押し出されて停止し、尾灯が破損し、後部に擦過痕が若干の歪みが生じるなどし、その修理に金三万四九〇〇円を要した。一方被告車(日産ローレル二〇〇〇CC)は、前部バンパー、ボンネット、ラジエーター等が破損したが、前部ガラスは破損せず、車全体として中破の程度であった。しかし、被告らはこれを修理せず廃車にした。

4  右衝突により、原告典昭はハンドルで首と腕を打った由である(本人の供述)。同原告が頭を打ったかどうかは、同原告自身も定かでない。原告千代子は、ダッシュボードに前頭部を打ち、その直後、後頭部を背後のガラスないし鉄板部分にぶつけ、瞬時意識を失い放心状態となった由である(本人の供述)。直後の自覚症状としては、原告両名とも首が痛いということであって、事故後間もなくして救急車で京葉病院に運ばれ、首、肩、頭のレントゲン検査、脳波検査、CT検査を受けたが、原告両名とも全部格別の異常がなく、全治一〇日間の頸椎捻挫と診断され、首にコルセットをし、薬を貰って帰り、その後同病院には一週間ほど通院した。

5  なお、原告典昭の右腕のしびれは事故後二〇日ほどして出てきた由(本人の供述)であって、事故当夜同原告は、警察における供述録取書に右手で普通に署名することができた。

6  以上の次第で、本件事故の衝撃が大きかったとか、軽微であったとか、単純に断定することはできないけれども、少なくとも事故直後においては、これによって原告両名が本訴において主張するような重大な損害を被ることは、客観的にも又関係者一同にとっても容易に予想し難いものであった。

四  原告両名の負傷及び後遺症の内容程度

原告らは、本件事故に因って多岐に亘る傷害及び後遺症を負った旨主張し、被告らはその存在ないし因果関係について強く争うので、ここで一括して原告らの負傷及び後遺症の内容程度について検討する。

1  まず、《証拠省略》を総合すると、原告らの負傷状況について以下のことが認定判断され(る。)《証拠判断省略》

(一)  原告典昭は、昭和二八年一一月二〇日生れで本件事故時満二五歳であり、原告千代子は昭和二三年八月一二日生れで右同満三〇歳であった。原告両名は、事故当日である昭和五四年一月一六日前記のとおり京葉病院で診断治療を受け、以後同月二二日まで四回通院した(全部で五回)が、医学的諸検査上他覚的な異常はなく、右の期間中頸椎捻挫による諸愁訴が持続したものと診断されている。なお、同院において原告典昭がどのような症状を訴えたのか診療録上は定かでない。原告千代子については、後頭部ないし頸部の痛み、眼の疲れ、吐き気、だるさ、物が二重に見えること、その他の諸症状を訴えていたことが診療録上認められる。この段階では原告千代子の症状のほうが重かったように窺われる。同病院が原告両名に入院を示唆したことはなく、且つ診療録上成田赤十字病院(以下その通称により「成田日赤」という)へ紹介したとの記録も見当らない。原告千代子の供述によれば、通院の便宜上右の紹介を受けたけれども、成田日赤の受付に勤める知人に問い合わせたところ、成田日赤は受付から混んでおり、且つベッドも空いておらず入院が難しい由であったので、成田日赤には最初から行かず、同月二三日同じ成田市内にある藤倉病院の診断を受けることにしたとのことである。

(二)  かくして、原告両名は同月二三日藤倉病院の診療を受け、同月二五日から同年五月一〇日まで一〇六日間夫婦揃って同病院に入院した。原告千代子の供述によれば、直ちに入院を指示された由であるが、他覚的所見に異常がないのに同病院が果して積極的に入院を指示したのか、甚だ疑わしい。むしろ、右(一)の経過に照らすと、原告両名は自分達で既に同病院に入院することを最初から決めていたものと推認しうる。なお、この入院中の原告らの病室は、病院の都合により夫婦が一緒だったり別だったりした。

右退院後同年九月三〇日までの一四五日間に、原告典昭は一一六日、原告千代子は一一一日実際に通院した。なお、原告千代子は、この通院期間中の六月二二日吐き気がひどいということで同院に一晩入院し、翌二三日に退院した。

さらにその後同年一〇月一日から昭和五六年二月二八日までの五一七日間に、原告典昭は二七九日、原告千代子は二一二日実際に同病院に通院した。

なお、藤倉病院は、昭和五四年一〇月に一旦は、原告両名とも同年九月三〇日に症状が固定したとの診断をしながら、その後も原告らの症状に格別の変化がないのに、さらに同内容の治療を繰り返したものである。藤倉病院における治療内容は、頸椎牽引、ホットパック、投薬が主で、右の長期間高密度に通院しても、原告両名の症状は格別軽快しなかったというものであり、昭和五四年一〇月一日以降の通院治療の必要性ないし相当性については後記のとおり疑いが残る。

原告らはこれを、右症状固定の診断に基づき強制保険の手続を採ったところ、時期尚早であるとの意見であったので、当然のことながら治療が継続されたものと説明するけれども、時期尚早との通知があったのは昭和五五年一月二九日であり、しかも時期尚早というのは、後遺症の存在を認定してその補償をすることが時期尚早というのであって、昭和五四年一〇月一日以降もなお藤倉病院に通院し、従前と同内容の治療を受けることが医学上必要且つ相当であったか否かということとは直接関係がないというべきである。

因みに、原告両名についての昭和五四年一一月八日付の藤倉病院の診断書各一通によると、最初の来院時、原告典昭は頸部、両肩挫傷の症状で、原告千代子は頸部、腰部の挫傷の症状で治療を受けた由である。右は各々本人の主訴によるものと推測されるところ、原告典昭の両肩及び原告千代子の腰部に何故挫傷があるというのか、前記事故の態様及び事故直後の原告らの主訴に照らして、甚だ理解し難い。少なくとも、京葉病院における当初の主訴が藤倉病院においては質量ともに拡張されていることが容易に窺える。原告両名のこの傾向は、以下のとおりその後さらに継続拡大する。

(三)  右藤倉病院への入通院と併行して、原告両名は、同病院の紹介により、空港クリニックで鍼治療を受けるべく、週に一、二回ぐらい通院した(より具体的数値を示すと、原告典昭は、昭和五四年三月一九日から同年八月二七日までの一六二日間に三六日、原告千代子は同年三月八日から同年八月二七日までの一七三日間に三八日、各々現実に通院した)。

(四)  そして、原告典昭は、本件事故後二〇日ほどして右腕がしびれるようになり、さらに二〇日ほどして手の平を下にして右腕を前方水平に伸ばすと指先が強く振戦するという症状(以下「本件振戦」という)を来し、字が書けなくなったということで、藤倉病院の紹介により昭和五四年四月二四日から千葉大学医学部付属病院(以下単に「千葉大」という)神経内科の診察を受けるようになった。同神経内科の渡辺医師の昭和五五年一二月ないし昭和五六年三月の診断では、本件振戦は、右上腕神経叢外傷後遺症であって、右関節以下の知覚・運動異常で、特に尺骨神経領域に著明であり、腕の筋電図検査上末梢神経障害のあったことを示唆する所見を得た由であり、障害期間の長さを考慮すると今後の回得は困難の由である。そして原告典昭の第一回供述によれば、右症状は発症以来今日まで余り変化がない由である。

しかし、右症状と本件事故との因果関係については以下のとおり甚だ釈然としない。そもそも千葉大が何故昭和五五年一二月一〇日まで筋電図検査をしなかったのか不可解であるし、この点は措いても、手指が振戦している以上(即ち、万一意図的に振戦させたとしても)筋電図にその反応が出るのは当然でないかと考えられ、これだけでは真実神経障害があったのかどうか判然としないのでないかと疑われる。また、本件振戦は右腕の神経障害に由来するかの如くであるが、本件事故によって右神経障害が生じたのであれば、何故二〇日後に(原告典昭の供述による。なお、《証拠省略》によれば、千葉大においては、同原告は、事故後三日後に首が痛くなり、一〇日後に右手がしびれ、三、四週間後に右手がふるえ字が書けなくなった旨述べたようである)発症するのか、外部の打撃による損傷である以上、即時に、あるいはせいぜい二、三日後に、しびれや振戦が生じて然るべきでないか、この点について証拠上首肯しうる説明が見出せない。加えて、異常が顕著という尺骨神経領域は、人体の前腕部に存するところ、本件事故の際原告典昭が前腕部即ち関節以外の部位に打撃を受けたとの証拠としては、同原告の後日の供述があるだけであって、事故直後においては、同原告は腕を打ったとか、腕が痛いとかとのことを警察でも京葉病院でも訴えていない。要するに、千葉大の診断は、本件振戦が仮に神経障害に基づくものであるとすれば、その障害が人体のどの部位、領域にあるといえるかを示しているにとどまり、この障害の存在及びこれと本件事故との因果関係については、必ずしも医学的に充分な検証説明を加えていないものと考えざるを得ない。

結局のところ、原告典昭の本件振戦あるいは右腕の握力低下に、心因的要素、あるいは本人の意思が作用していないことについては確たる資料がない。本件振戦が未だにあるというにもかかわらず、同原告は、再開した青果業においてその右腕で相当の重量を持ち上げるなどして、利き腕である右腕をほぼ普通に使用している。同原告は、手の平を上方に向けた時にかぎり振戦が生じるというところ、資料がないため試みに自ら実験してみるに、なるほど手の平を上にしたほうが重いものを差し上げ易いことは確かである。しかし、また同時に、手の平を上にして利き腕でないほうの手で同原告の如き振職を作出するのは非常に困難であるが、利き腕のほうの手の平を下ににして水平に伸ばして力を入れると比較的容易に右の如き振戦を作出しうることも明らかである。

以上、本件振戦については甚だ釈然としない点が多い。

(五)  一方、原告千代子は、昭和五四年二月五日から同年八月二〇日までの間、近視、弱視との病名で成田日赤に一七日間現実に通院した。同原告は初診の右二月五日、石川渉医師に対し、本件事故後三、四日してから目がかすみ、うす暗い所が特に見えない感じになった旨訴えた。

右石川渉医師の診断では、同原告に先天性の網膜色素変性症(以下単に「変性症」という)があっても、視野が未だ比較的広いのに視力低下の速度が急激であることに照らして、同原告に生じた視力低下は「むち打ち症」の一分症と考えられるとのことである。しかし、本件事故前の同原告の視力については、確たる資料が乏しく、結局右同医師も、同原告本人の説明や、昭和四七年当時同原告を診察した時の記憶(石川証言によっても、甚だ曖昧な記憶としかいえない)や、昭和五三年六月に大手スーパー内のキクチ眼鏡店で同原告が運転免許取得のため視力検査を受けた際の記録を参酌して右事故前の視力を推測したに他ならない。なお、同医師が右眼鏡店の記録をどのように解釈したのかについても些か曖昧であって(同医師の証言によっても、裸眼視力が〇・四、〇・五とする記載は、矯正視力の誤まりであって、裸眼視力は〇・二程度だったのでないかと推測した由であるが、些か便宜的に過ぎると思われる)、果して本件事故を境として、その前後において「急激」な視力低下があったといえるのか、なお定かでない。

かえって、同原告は、先天的変性症を有し、小学生時から近視で、中学生時の昭和三八年七月、既に左右裸眼視力各〇・五、両眼近視性乱視と診断され、昭和四八年に医師の指示によって眼鏡を作っている。そして、右キクチ眼鏡店の検査では、矯正視力が〇・八あったとされるが、目的たる運転免許は結局取得しなかった。同原告は、これを忙しかったためと説明する(同原告の供述)けれども、そのために態々視力検査を受け、しかも運転免許が原告らの職業上大いに必要且つ便利と考えうることに照らして、やはり視力に問題があって断念したのではないかとの疑いが残る。

同原告は、本件事故後、千葉大及び東大病院でも、右の視力低下ないし変性症について診察を受けたが、右両大学の医師は、視力低下は変性症のためであり、本件事故との因果関係は定かでないと診断した由である。むち打ち症によって視力低下が起りうるとする文献がある一方、変性症の視力低下は、一般論として、発病から〇・六までは緩徐だが、〇・五以下、特に〇・一前後において急激に悪化する傾向があり、初診時〇・五以下(且つ〇・一以上)の症例五四眼は一〇年後、三九眼(七二%)が〇・一未満となり、二四眼(四四%)が〇・〇四未満(点字を必要とする視力)となり、約五〇%が両眼とも〇・一未満となり、四三%が両眼とも〇・〇四未満となったとの研究報告がある。もとより例外がありえようが、前記のとおり同原告が小学生時に既に近視で、中学生時の視力が両眼ともに〇・五であって、この近視が変性症によるものと強く疑われる以上、中学時から十数年を経た本件事故時、例えば同原告が前記キクチ眼鏡店の記録に基づいて供述するような視力、即ち裸眼〇・四、〇・五、矯正〇・八などという視力を保持していたとは、右研究報告に照らして容易に認め難い。本件事故直前同原告の視力は既に相当悪化していたものと疑わざるを得ない、そもそも、同原告が事故後比較的早く眼の症状を訴えていたとはいえ、当初いずれも固有の変性症に由来すると考えられる症状内容を訴えていたものであり、事故後約二〇日の右二月五日に石川渉医師の診察を初めて受けた際も、必ずしも視力が急激に低下したとは訴えていなかったように窺える(少なくとも診療録上そのような記載はない)。

以上の次第で、同原告の視力が本件事故によって格別に低下したとは、未だ認定しえない。

(六)  原告千代子はまた、千葉大眼科において頭痛を訴えたことから、昭和五四年五月一八日同眼科から千葉大脳神経外科に回され、同月二一日、四番五番の頸椎の椎間腔がやや狭いが、当該部位に脊髄病、神経病根はないとの診断を受けた。

(七)  原告千代子はまた、人格感喪失、記憶力減退、不眠、朝がつらいなどの症状により、同年五月二九日千葉大精神科の診察を自ら受け、抑うつ症との診断を受け、昭和五六年七月二九日までの二年余の間に二二回ほど通院し、治療を受けた。しかし、同原告が昭和五四年五月二一日千葉大の眼科において、医師から、将来に備えて(即ち、失明に備えて、の意と解される)生活の基盤をきちんとしておくよう指示されたこと、それから約一週間後の同月二九日に右の精神科を訪ねたことに照らすと、眼科での右指摘指示が同原告の前記抑うつ症的諸症状、情緒不安定を招来し、あるいは増悪させた可能性は高いと考えられる。

(八)  原告千代子はまた、本件事故後耳鳴りがするようになったとのことで、昭和五四年六月一二日成田市内の耳鼻咽喉科橘医院の診察を受け、同年九月一二日までの九二日間中四三日間現実に通院した。この間の同年六月二一日急性扁桃炎を併発したところ、同医院の診断内容は、両側耳鳴症、急性扁桃炎であって、低音域に聴力損失があり、通院中やや改善し、日常会話には全然支障がなく、鼓膜所見及びX線等の他の所見は正常であり、特記すべき異常はない由である。原告の供述によれば、右の通院時肩こりがひどかったところ、これがおさまったので通院をやめた由である。因みに、同原告の耳鳴りは終始あるようであるが、これはもっぱら同原告の主訴によるものであって、橘医院が医学的検査によって他覚的にこれを確認したことは証拠上認められない。この耳鳴りについても、前記眼科での変性症の指摘指示、その他の心因的要素が多分に作用している可能性が高いと考えうる。

2  以上の次第であって、本件事故に因って生じたと原告らが主張する右諸症状は、その発症過程などに照らして本件事故との因果関係が釈然としない点が多く、原告千代子の視力低下、聴力障害などについては右の因果関係につき証明不充分といわざるを得ない。

しかし、だからといって、原告らの右諸症状が全部詐病であるとも、前記各医師の診断がそれ自体誤診であるとも、もとより断定し得ないところ、かえって被告らにおいて権威ある専門医を顧問にしており信頼すべきであると主張する強制保険上の査定においても、原告典昭の右上肢の症状は本件事故に因るものであって、局部に頑固な神経症状を残す自賠法施行令二条別表(以下単に「別表」という)一二級一二号相当の後遺症と認定されており(当事者間に争いがない)、原告千代子の視力及び聴力障害を除く症状は局部に神経症状を残す別表一四級一〇号相当の後遺症と認定されている(右同争いがない)。

3  頸椎捻挫あるいはむち打ち症と称されている症候群については医学上なお未解明な点が多いことに照らすと、因果関係について釈然としないところの不利益を全部被害者である原告らに帰することは不公平である。

以上の検討結果、その他本件に顕われた一切の事情に照らすと、本件賠償請求においては、結局原告らは本件事故に因って、いずれも頸椎挫捻等の傷害を負い、前記認定にかかる入通院の結果昭和五四年九月三〇日にその症状が固定し、前記強制保険の査定どおりの後遺症(即ち原告典昭は別表一二級相当、同千代子は一四級相当の後遺症)が残ったものと認めるのが相当であると判断する。そして、これを超える負傷及び後遺症があったとの原告らの主張部分は、未だこれを認定しうる証拠がないという他ない。

そして、右検討結果に加えて、次の検討する原告らの職業などに照らすと、本件賠償額の算定に際しては、(一)事故後約八・五月の右症状固定時までに要した京葉病院、藤倉病院及び空港クリニックにおける治療費の全額、(二)右同期間内の藤倉病院における入院時の入院雑費(一日当り六〇〇円相当)、(三)右同期間内の入通院慰謝料、(四)右同期間内の逸失利益(休業損害。なお入院期間中については全額、通院期間中については一日当りその半額とみるのが相当)、(五)右症状固定時以降の後遺症による逸失利益(後記のとおり、原告典昭については三年間一四パーセント、同千代子については二年間五パーセントの各労働能力喪失とみるのが相当)、並びに(六)右後遺症についての慰謝料、以上を具体的損害費目として認め、その余の治療費及び入院中の付添看護費は不必要不相当のものであって本件事故との因果関係についてなお証明がないとするのが相当と判断する。

以上の認定判断に反する原告らの主張部分については、未だこれを採用するに足りる証拠がないに帰する。

五  原告両名の事故当時の就職収入状況

原告らの負傷、後遺症の他に、本件事故当時原告らがどれだけの収入を得ていたかとの点が大きな争点となっているので、ここでまとめて検討する。

1  《証拠省略》によれば、原告典昭は、酒々井町役場の職員であったが、昭和五二年に同職を辞し、父の漬物屋を手手伝っていたこと、この頃原告千代子は主婦で格別の職業に従事していなかったこと、原告両名は昭和五三年三月六日から野菜、果物類の卸・小売業を開始した由であること、投資は二トントラック(本件事故の際の原告車)を用意した程度であること、当初はいわゆる青空市場での出張販売をしていたが、昭和五三年八月ないし九月からは船橋市の市場内の店舗営業をも開始したこと、原告両名ともに青果業は初めてであって、当初の三カ月ほどは親類の者に全面的に依存して商いをしていたこと、原告両名とも青果市場での買受人の資格はなかったこと、しかし原告典昭は他人の資格を借用して事実上青果市場で買受けていたこと、このようにして買受けた品物を他の同業者に回すこともあったこと(なお、何故無資者で新米の原告典昭が買受けて同業者に回すのか、理解し難いところがある)、以上のことが認められ、この認定に反する証拠はない。

2  そして、原告両名は、甲第二号証の一ないし九などを根拠として、右昭和五三年三月六日から本件事故時までの約一〇カ月間に、総額三四四九万円余の品物を仕入れたかの如く主張供述し、且つ、その小売値は平均して仕入値の二倍であって、利益率は仕入総額の四割であったから、月平約一三八万円の収入があったことになる旨主張する。

しかし、甲第二号証の一ないし四につては、これが全部原告典昭の仕入分を示すものか疑わしい。けだし、いずれも各数値の積算の根拠数字を欠くし、元来原告典昭には買受人資格がなく、その一方親類に「吉岡」姓で買受人資格を有する青果業者があるという(原告らの供述)。そして、甲第二号証の四中の「昭和五三年三月」というのは、原告両名が青果業を開始した月であって、市場から買受ける蓋然性が乏しい。さらに、甲第二号証の五は原告典昭の実父が作成したものであり、父から仕入れた漬物をどのように販売したというのか、そもそも独立採算であったのか否か、疑問が残る。

3  加えて、原告両名は、右本件事故前の青果業について一切帳簿類がないという。いわば脱サラ一、二年生の者が初めて青果業を営むにしては、余りにもずさんであって、にわかに信じ難い。経験に乏しい原告らが二トントラック一台の投資で、月平均約一三八万円の利益を上げていたとは経験則上にわかに措信し難いところ、これを認定すべき具体的資料は全くない。仮に未経験無資格でも二トントラックさえあれば右の如き収入を得られるとすれば、多くの者が競って青果業に従事するであろう。あるいは、一般青果業者もまた原告らと同様の形態を採り、高収入を得よう。しかるに、現実がそうでないことは、統計上及び経験則上明らかである。原告らが如何に馬車馬の如く働いたとしても、右の如き利益を上げ得たとは容易に信じ難く、且つ、右の如き利益が仮にあったならば逆に馬車馬の如く働き続ける必要もなかったと考えうる。ひるがえって、前掲証拠上、原告らは昭和五六年六月から店舗を構えて青果業を再開したことが認められるが、本件訴訟中にもかかわらず、この再開後の営業実績についてすら原告らは具体的計算を示さず、ただ漠然と《証拠省略》を提出するにとどまる。因みに、《証拠省略》によれば、原告らは、原告千代子を原告典昭の青果業の青色専従者として毎月二〇万円、賞与を含めて年間三四〇万円の給与を支給する旨の届出書を成田税務署長に昭和五四年三月五日に提出している。原告両名ともに入院中のこの段階で何故このような届出をしたのか、甚だ理解し難いが、その一方で、《証拠省略》によれば、原告典昭は本件事故後の昭和五四年九月に、昭和五三年中の所得を二〇四万四〇〇〇円と申告しており、原告千代子は所得申告をしていない(少なくとも、これをしたとの証拠がない)。

因みに、そもそも、原告両名が昭和五三年三月六日から青果業を開始したというのも、ただ原告両名の供述のみを措信しているのであって、他に格別の資料はなく、当時の原告両名の就職及び収入の実態についても信頼しうる資料がない。

4  以上の次第であって、本件事故前ないし事故当時の原告らの就職及び収入の実態については、信頼すべき具体的資料が甚だ乏しく、釈然としない。しかし、原告両名の供述に照らして、少なくとも本件事故当時原告らは、収入ないし営業利益の数額の点を除き、その主張にかかる青果業を概ね順調に営んでいたものと認めることができ、この認定に反する格別の証拠はない。そうであれば、本件損害賠償請求事件において原告らの収入利益を如何に算定するのが合理的であるかに帰するところ、《証拠省略》及び当職が入手し得た統計上の青果小売業者の年間売上高及び利益率はさほど高くないことに照らして、敢えて脱サラしたという原告らの利益のため、労働省「賃金構造基本統計調査報告」に基づく産業計(パートタイム労働者を除く)、企業規模計、学歴計の男女別労働者賃金統計によってみるのが相当であると判断する。即ち、これを具体化すると、昭和五四年度において、二五歳男子は、月平均一七万二五〇〇円の給与の他に五二万六一〇〇円の年間賞与等の支給があり、合計二五九万六一〇〇円の平均年収を得ており、同三〇歳女子は、月平均一二万二一〇〇円の給与の他に三八万七七〇〇円の年間賞与等の支給があり、合計一八五万二九〇〇円の平均年収を得ている。原告らのこの年収を合算すると、四四四万九〇〇〇円となるところ、この月平均三七万円余の金額は、前認定のとおりの態様で開始された脱サラ一、二年目の青果小売業者が得べかりし所得として決して低きに失するものではないと考えうる。

そして、原告らの主張及び供述によれば、事業についての寄与率は原告典昭が六割、同千代子が四割の由であるので、その余の前掲各証拠に照らして千代子の寄与率は実際はより低率でないかとの疑いが若干残るけれども、他に確たる資料がないので原告らの主張どおりと認め、前記年収を右の割合で按分して修正することとし、これを計算して、本件事故当時、原告典昭は年二六六万九四〇〇円、一日当り七三一三円(円未満切捨。以下同じ)の収入を、同千代子は年一七七万九六〇〇円、一日当り四八七五円の収入を各々得ていたものと認めることとする。

6  右により、この点に関する原告らの主張は、右4記載の範囲内で認めることができ、これを超える主張部分については未だこれを認定するに足りる証拠がないに帰する。

六  損害額の算定

以上の各検討結果(特に、本件事故について原告らは一方的な被害者であり、被告武典の過失の程度は大きいというべきこと、他方、原告らの主張及び供述にかかる負傷、後遺症の内容程度は釈然としない点が多く、そのまま措信採用することは到底困難であり、且つ右同労働能力の喪失程度、逸失利益の算定についても同断という他ないことなど)、《証拠省略》を総合判断し、本件事故によって原告らが被ったと認められる損害額を積算すると、以下のとおりとなる。これを超える原告らの主張部分は、結局未だ証明がないに帰する。

1  原告典昭について

(一)  治療費

(1) 京葉病院分 九万五九六〇円

(2) 藤倉病院分(但し、前記理由により、症状の固定した昭和五四年九月三〇日まで) 一六七万一五〇〇円

(3) 空港クリニック分 五万四〇〇〇円

(二)  一〇六日間の入院雑費(付添看護を不必要不相当とすることと対比して、一日当り六〇〇円とするのが相当) 六万三六〇〇円

(三)  右症状固定時までの入通院慰謝料九六万円とするのが相当である。

(四)  右同入通院時の休業損害

《証拠省略》に照らして、事故の翌日である一月一七日から藤倉病院退院時の五月一〇日までの一一四日間は一〇割、同月一一日から症状固定時の九月三〇日までの一四三日間は平均五割、本件事故がなければ得られたであろう所得を逸したとみるのが相当である。原告典昭の所得は一日当り前記七三一三円とみるのが相当であるから、これを計算すると合計一三五万六五六一円となる。

(五)  前記後遺症に基づく逸失利益

原告典昭は前記のとおり別表一二級一二号相当の後遺症を残し、症状固定後三年間平均一四パーセント労働能力を喪失し、その分得べかりし所得を逸したものとみるのが相当である。労働能力喪失の程度がより大きいとの同原告の主張及び供述は、《証拠省略》に照らして措信採用することができない。右三年間の法定利率年五分の中間利息控除は前掲各証拠に照らしてホフマン式によるのを相当と認め、その係数二・七三一〇(小数第五位四捨五入。以下同じ)を採用し、年収を前記二六六万九四〇〇円として右逸失利益を計算すると、一〇二万〇六一八円となる。

(六)  後遺症に対する慰謝料

金一五〇万円とするのが相当である。

(七)  合計

右(一)ないし(六)の合計は、金六七二万二二三九円となる。

2  原告千代子について

(一)  治療費

(1) 京葉病院分 一〇万七四八〇円

(2) 藤倉病院(原告典昭と同様に昭和五四年九月三〇日まで) 一四〇万四七六〇円

(3) 空港クリニック 五万七〇〇〇円

(二)  一〇八日間の入院雑費(原告典昭と同様に一日当り六〇〇円とするのが相当) 六万四八〇〇円

(三)  右昭和五四年九月三〇日の症状固定時までの入通院慰謝料

九六万円とするのが相当である。

(四)  右同入通院時の休業損害

事故の翌日である一月一七日から藤倉病院退院の五月一〇日までの一一四日間及び六月二二日、二三日の二日間、合計一一六日間は一〇割、その余の九月三〇日までの合計一四一日間は平均五割、各々得べかりし利益を失ったとみるのが相当である。原告千代子の所得は一日当り前記四八七五円とみるのが相当であるから、これを計算すると合計九〇万九一八七円となる。

(五)  前記後遺症に基づく逸失利益

原告千代子は前記のとおり別表一四級一〇号相当の後遺症を残し、症状固定後二年間平均五パーセント労働能力を喪失し、その分得べかりし所得を逸したものとみるのが相当である。二年間の法定利率年五分の中間利息控除は前掲各証拠に照らしてホフマン式によるのを相当と認め、その係数一・八六一五を採用し、年収を前記一七七万九六〇〇円として右逸失利益を計算すると、一六万五六三六円となる。

(六)  後遺症に対する慰謝料

金五五万円とするのが相当である。

(七)  合計

右(一)ないし(六)を合計すると四二一万八八六三円となる。

七  損益相殺

損害填補の抗弁事実については当事者間に争いがない。よって、原告らの前記各損害額から、原告典昭については金四七七万一三〇〇円、原告千代子については金三三一万八三〇〇円の各填補額を控除する。そうすると、未だ填補されていない損害額は、原告典昭が金一九五万〇九三九円、原告千代子が金九〇万〇五六三円と計算される。

八  結論

右により明らかなとおり、原告典昭の請求は、被告らが各自右金一九五万〇九三九円及びこれに対する本件事故日(昭和五四年一月一六日)から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うよう求める限度で理由があり、原告千代子の請求は、被告らが各自右金九〇万〇五六三円及びこれに対する前同様の遅延損害金を支払うよう求める限度で理由があるので、これらを認容し、原告らのその余の請求はいずれも失当であるに帰するのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条を、仮執行宣言及び仮執行免脱宣言につき同法一九六条を各適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 伊藤剛)

<以下省略>

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